最後の“i”が気になる

以前、Buscarino Virtuosoを所有していた。

初めて本格的に仕様を決めてオーダーしたアーチトップギターである。使用材、色、ナット幅、ネックグリップフィールなど、細かな部分まで自分の希望を伝えながら製作を待つというのは、それまで完成品を買うことしか知らなかった私には、なかなか新鮮な経験だった。

Virtuosoの製作もいよいよ大詰めとなった頃だったと思う。Buscarinoからメールが届いた。

インレイを担当している職人のところで手違いがあり、テールピースに入れる私の名前のスペルを修正する必要が出た。そのため完成が少し遅れるという。そして念のため、もう一度正しいスペルを確認させてほしい、とあった。

これまでBuscarinoとのメールのやり取りでは、その都度こちらの名前を書いてきたのだが。まあ、間違いは起こる。

それよりも、そのメールに出てきた “inlay guy” という言葉の方が私には意外だった。当時の私は、Virtuosoに施されるインレイもBuscarino本人が入れているものだと何となく思っていたのである。誰かにそう聞いたわけではない。ただ、ハンドメイドのカスタムギターというものを、今よりずっと単純に考えていたのだろう。

木工も塗装もインレイも、全部本人がやっている。純真無垢な私は勝手にそう思っていた。

Virtuosoでは当時、指板にTree of Lifeを入れることもできた。しかも追加料金なしで。
オーダー時には少し迷ったが、結局頼まなかった。

“inlay guy” の存在を知った時、最初に思った。

Tree of Life、頼まなくてよかった。

実に小さい。

目次

そして、Virtuosoが届いた

そんなこともありながら、やがてギターは完成した。

待ちに待ったVirtuosoである。ハードケースを開け、しばらく眺めてからギターを持ち上げた。

その時、最初に感じたのが、

薄い。

だった。

何となくではない。手に取った瞬間に違和感があった。確認してみると、指定した胴厚より3/8インチ薄かった。

3/8インチ。約9.5mmである。

私にとってアーチトップギターの胴厚で9.5mm違うというのは、さすがに「まあいいか」で済ませられる数字ではない。(たかだか1cm弱と思えるような人間はこんな偏屈なブログを書かない)

初めてオーダーしたカスタムギターをハードケースから取り出して、最初に気づいたことが胴厚の違和感だった。

その後のやり取りの結果、ギターは作り直してもらうことになった。
これは以前に語ってきたのでここでは詳しくは書かない。

そして、胴厚のことで頭の中がいっぱいになりながら、改めてギターの細部を見ていた時である。

今度はテールピースに目が行った。

製作途中に一度手違いのあった名前は、きちんと正しいスペルになっている。

そこに間違いはない。

ただ、何となくセンターから少しずれて見える。

ほんの少しである。

普通に見れば、おそらく何とも思わない程度だろう。しかし一度気づいてしまうと、そのわずかなズレが気になる。

特に最後の“i”。

ここを見ると、どうにもセンターが気になってくる。

目の前にあるギターは、胴厚が3/8インチ違っているのである。それに比べれば、テールピース上の名前がほんの少しどこに位置しているかなど、ほとんどどうでもいい。

しかし、気になるものは気になる。

それでも長く所有した

結局、Virtuosoは新しく作り直された。

だからといって、この一連の出来事だけをもってギターそのものを評価するつもりはない。実際、私はそのVirtuosoをその後かなり長く所有した。

ただ、高価なハンドメイドギターでも、インレイを担当する別の職人がいて、そこで手違いが起こることもある。そして完成して届いたギターの詳細が、指定と違っていることもある。

今となっては当たり前の話である。胴圧のサイズ違いはどうかと思うが。

作っているのは人間なのだから。

私にとってBuscarinoという製作者は、実際に仕様を相談し、何度もメールをやり取りし、完成を待ち、そして出来上がったギターを自分の手でケースから持ち上げた相手である。都合二度も。

その時の「薄い」という感触も含めて、Buscarinoなのである。

ギターを手放す

そのVirtuosoも、やがて手放すことになった。

そこでひとつ問題が出た。

テールピースに私の名前が入っている。

次のオーナーに、このままでも構わないかと尋ねてみた。できれば新しいものの方がいい、という返事だった。

まあ、そうだろう。

自分が中古ギターを買って、そのテールピースに前の所有者の名前が大きく入っていたら、私でも少し困る。

そこで新しいテールピースを用意し、名前入りの元のテールピースは私のところへ返してもらうことになった。

次のオーナーは、それをJohn Lobbの袋に入れて返してくれた。

普段ウォーキングシューズしか履かない私でも、John Lobbくらいは知っている。ずいぶん立派な袋に収まって帰ってきたものである。

行き場のないテールピース

こうして、ギター本体はなくなり、私の名前が入ったテールピースだけが手元に残った。

せっかくなので、何かに使えないものかと考えた。

まず思いついたのが辻四郎のGEM-Bだった。

しかし、何より辻四郎のギターに突然Buscarinoのテールピースが現れる理由がない。

Benedettoにも考えてみた。

これも違う。

完成したギターには、それぞれそのギターなりの姿がある。そこへ別の製作者のテールピース、それも自分の名前入りのものだけを移植するというのは、どうにも落ち着かない。

結局、楽器に付けるのは諦めた。

それなら飾ればいい。

薄手のコレクションボックスを用意し、天蚕糸でテールピースを吊り、額装よろしく飾ってみた。

かつて自分のために作られたカスタムギターのテールピースである。しかも自分の名前入り。

文章にすると、なかなか良い記念品に思える。

ところが実際に飾ってみると、その前を通るたびに思う。

なんじゃこれは。

どうにも落ち着かない。

しばらくして外した。

今はまた、John Lobbの袋に入っている。

たまに取り出して眺めると、Virtuosoをオーダーした頃のことを思い出す。完成間近に届いたBuscarinoからのメール。“inlay guy”。ケースからギターを持ち上げた瞬間に感じた胴厚の違和感。そして、結局作り直すことになったこと。

どれも二十年以上前の出来事である。

3/8インチの胴厚違いも、今ではこうして笑って書ける。

それなのに。

テールピースを見ると、いまだに最後の“i”が気になる。

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