Il FiorentinoとIl Palissandro、異なる二つの回答

BenedettoのRenaissance Seriesは、Il FiorentinoとIl Palissandroの二本だけで構成されています。
以前このサイトでIl Fiorentinoを紹介した際、私もこのシリーズを、Benedetto氏が製作した二本の特別なアーチトップとして捉えていました。
最初の一本であるIl Fiorentinoは、ナイロン弦を張った、きわめて特殊な楽器です。
一方のIl Palissandroは、ローズウッドのサイドとバックに、マホガニーネックを組み合わせた16インチのノンカッタウェイ。表板中央には、花弁を思わせるサウンドホールが置かれています。(Floral clusterd sound openings とBenedetto氏は呼んでいます)
外観も、使用する弦も、材の選択も大きく異なります。
二本だけのシリーズでありながら、その二本に共通する仕様は多くありません。
こういったものに興味が無い人が遠目で見れば同じと判断されるかもしれませんが。
では、なぜこの二本は同じRenaissance Seriesとして扱われたのでしょうか。
改めて考えるきっかけになったのは、Benedetto氏の手書きのログブックでした。
Americanaやブレイシングのことを調べている時に、「Making an Archtop Guitar」の最後に載せられている活字版との違いで色々な発見がありました。
その手書きのログブック、そこには現在Il Fiorentinoとして知られる#31494にも、Il Palissandroとして知られる#37096にも、それぞれのモデル名が記されていません。
#31494には「Renaissance」。#37096には、すべて大文字で「RENAISSANCE」とあります。
後に出版された『Making an Archtop Guitar』の活字記録では、#31494は「Il Fiorentino model」と記されています。しかし、製作時に残された手書きの記録では、個別の名称よりもRenaissanceという言葉が先に置かれていました。
しかも、二本はぽんぽんと続けて製作されたわけではありません。
Il Fiorentinoの完成からIl Palissandroまでは、約1年9か月が空いています。
同じ仕様を展開した兄弟モデルでもなければ、最初から二本一組として計画されていたのかどうかも分かりません。
それでもBenedetto氏は、異なる時期に製作した性格の違う二本を、ともにRenaissanceと記しました。
Renaissanceとは、二本に共通するモデル名だったのでしょうか。
それともBenedetto氏がこの時期、アーチトップという楽器に向けていた、何らかの問いの名前だったのでしょうか。
最初の一本、Il Fiorentino

Renaissanceとして最初に製作されたのは、1994年の#31494です。
何度このページを添付してきたことか。
ちなみにですが、これは初版(LIMELITE PRESS版)をスキャンしたもので、以後のものより色がよく出ております。
現在この楽器を指すIl Fiorentinoという名も、Renaissanceと無関係には思えません。
イタリア語のfiorentinoは「フィレンツェの」、また名詞としては「フィレンツェ人」を意味します。定冠詞Ilを伴うこの名は、直訳すれば「フィレンツェ人」といったところでしょう。
フィレンツェは、ルネサンスを象徴する都市です。その名がRenaissanceという呼称と響き合っていることは確かですが、Benedetto氏が命名の意図を説明した記録は、現在のところ確認できていません。
私にとって興味深いのは、Il Fiorentinoという名が、手書きのログブックには記されていないことです。
製作時の記録にあるのは「Renaissance」だけです。一方、『Making an Archtop Guitar』では、Limelite Press版とHAL・LEONARD版ともに、#31494は「Il Fiorentino model」と記されています。
初版と第二版では若干の違いがあります。お知りになりたい方は下記のリンクからご覧ください。↓
Il Fiorentinoは、16インチのノンカッタウェイにナイロン弦を張ったアーチトップです。
スロテッドヘッド、2インチのナット幅、左右非対称に処理された指板の先端。そしてアッパーバウトには、通常のfホールではなく、花弁を思わせるサウンドホールが置かれています。

単に既存のアーチトップにナイロン弦を張ったというだけの楽器ではありません。
ナイロン弦は、スティール弦とは張力も振動の伝わり方も異なります。従来のアーチトップの姿を残しながら、低い張力で表板を動かし、十分な反応を得るためには、構造そのものを見直す必要があったはずです。
ただ、Benedetto氏にとって、ナイロン弦を用いたアーチトップが、まったく未知の発想だったわけでもありません。
手元にあるD’Angelico関係の資料には、Benedetto氏が、D’Angelicoによるナイロン弦仕様のオーバルホール・カスタムを修理したことが記されています。
この経験がIl Fiorentinoの直接のきっかけだったと断定することはできませんが、それでもBenedetto氏は、Il Fiorentinoを製作する以前に、D’Angelicoが試みたナイロン弦アーチトップを実際に修理し、その構造に接していました。
ナイロン弦アーチトップという発想は、1994年に突然現れたものではなかったのです。
そうした先行例を知るBenedetto氏が、1994年に示した自らの答え。それが、Renaissanceという名のもとに残された最初の一本でした。
ナイロン弦のために組み直されたアーチトップ

Il Fiorentinoの特異さは、ナイロン弦を張っていることだけではありません。
16インチのノンカッタウェイという外形だけを見れば、むしろ古典的なアーチトップです。しかし、そこへナイロン弦を組み合わせるため、楽器の各部は通常のBenedettoとは大きく異なるものになっています。
#31494を内部から見ると、一般的なBenedettoのXブレイスやパラレル・ブレイスとは異なる、細いブレイスが配されています。
Il Fiorentinoは、既存モデルの弦だけをナイロンに置き換えた派生仕様ではありません。
アーチトップという形式を残しながら、ナイロン弦に応答する楽器として、全体を組み直した一台でした。
ただし、その大胆な構想が、そのまま使いやすさにつながっているわけではありません。
スロテッドヘッドに取り付けられたギアレス・チューナーは、この楽器の意匠には極めてよく馴染んでいますし、この要素も魅力の一つとなっています。しかし、少なくとも現在の状態では安定した調弦が難しく、演奏に用いるうえで大きな障害になっています。
後年、私が16インチ・カスタムをオーダーした際、このギアレス・チューナーの採用が可能か尋ねたことがあります。しかしBenedetto氏から返ってきた答えは、「スティール弦には使用できない」というものでした。この仕様は、少なくとも通常のスティール弦アーチトップへ展開されるものではなかったようです。
それでもIl Fiorentinoが、完成された通常モデルの使いやすさを保ったまま、外観だけを変えたギターではなかったことは分かります。
ナイロン弦という方向へ、アーチトップの可能性を探った楽器でした。

この方向が、後継モデルとして継続的に展開されたわけではありません。
しかし、ナイロン弦アーチトップという試みが、Il Fiorentinoだけで途絶えたわけでもありません。
Savannah期には、Stephanie Ward氏が製作したカスタム・ナイロン弦の#S2367や、Neil Lamb氏が「Jamenco」と名付けた7弦ナイロンモデルが確認できます。さらに2023年には、ナイロン弦仕様のSinfoniettaであるVinodetto XIも製作されました。
これらをIl Fiorentinoの直接の後継と呼ぶことはできません。
それでも、Il Fiorentinoが探ったナイロン弦アーチトップの可能性は、後のBenedetto工房でも、形を変えながら繰り返し取り上げられていたのです。
しかし、次に手書きのログブックへRenaissanceと記された楽器は、Il Fiorentinoとはまったく違う方向を向いていました。
1年9か月後のIl Palissandro

Il Fiorentinoの完成から約1年9か月後、Benedetto氏は#37096を製作しました。
現在この楽器を指すIl Palissandroという名は、Il Fiorentinoよりも直接的です。
palissandroは、イタリア語でローズウッドを意味します。
こちらは象徴的な名称というより、サイドとバックに用いられた材が、そのまま楽器の名になったと考えるのが自然でしょう。
しかし、Il Palissandroという名も、手書きのログブックには見当たりません。
そこにあるのは、すべて大文字で記された「RENAISSANCE」という言葉だけです。
少なくともログブック上では、Il Fiorentinoと同じく、個別の名よりもRenaissanceという言葉が前面に出ています。
Il Palissandroは、スティール弦を張った16インチのノンカッタウェイです。
サイドとバックにはローズウッド、ネックにはマホガニーが用いられ、表板の中央には花弁を思わせるサウンドホールが配置されています。
Il Fiorentinoのように、弦の種類やネック幅まで大きく変更した楽器ではありません。
そもそも16インチのノンカッタウェイは、ギターの歴史の中で特別に珍しい形式ではありません。
ローズウッドのサイドとバックにマホガニーネックという組み合わせも、皆さんご存知の通りクラシックギターやスティール弦のフラットトップでは広く用いられてきた定石であり、マホガニーのネックはジャズギターにも古くから前例があります。
中央に装飾的な開口部を置く発想にも、ギター史の中に前例があります。Il Palissandroとの直接的な関係は確認できませんが、古いギターには、サウンドホールに透かし細工による装飾的なローズを備えたものが見られます。
Il Palissandroは、ギターとして異端だったわけではないのです。
それでも、Benedetto氏の作品として見れば、ローズウッドのサイドとバックは明らかに異例でした。
Benedetto氏の主要モデルでは、スプルースのトップに、メイプルのサイドとバックを組み合わせる構成が基本でした。
Il Palissandroの新しさは、未知の材や形を発明したことにあったのではありません。
他の種類のギターでは長く使われてきた材の組み合わせを、Benedetto氏が自らのアーチトップへ持ち込んだことにありました。
Il Fiorentinoでは、ナイロン弦を成立させるために、アーチトップの構造そのものが大きく組み直されました。
一方のIl Palissandroは、スティール弦と古典的な16インチ・ノンカッタウェイを保ちながら、使用材とサウンドホールのあり方を変えています。
二本は、同じ方法で新しい方向を探ったのではありません。
Il Fiorentinoが、ナイロン弦という方向へアーチトップの可能性を探った楽器だとすれば、Il Palissandroは、既存のギターの伝統をBenedetto氏自身の様式へ取り込んだ楽器だったように見えます。
Benedetto氏が作りたかった16インチ・ノンカッタウェイ
Il Palissandroの意味は、この一台だけを見ていても、十分には分かりません。ローズウッドが使われている、というような表面的な意味ではなく、です。
その後のBenedetto氏が、16インチ・ノンカッタウェイという形式をどのように扱ったのか。そこまでたどって、初めて見えてくるものがあります。
後年、私が16インチ・ノンカッタウェイの製作を依頼した際、Benedetto氏は、この形式こそ自分が作りたい楽器だと伝えてきました。
それは、私の希望に応じて選ばれた形式ではありませんでした。
そして最初に勧められたのが、ローズウッドのサイドとバックに、マホガニーネックを組み合わせる仕様でした。
この材構成そのものは、決して珍しいものではありません。
しかしBenedetto氏はすでにIl Palissandroで、ローズウッドのサイドとバックを持つ16インチ・ノンカッタウェイを製作していました。
私は、そこで得た結果に確信を持っていたからこそ、後の16インチ・ノンカッタウェイにも、まず同じ方向を勧めたのではないかと思っています。
さらに、提示された複数のサウンドホール案の中には、Il Palissandroを思わせるパターンも含まれていました。
完成した16 Customは、Il Palissandroとは異なる仕様に落ち着きました。しかし製作の初期段階では、材構成だけでなく、意匠についてもIl Palissandroにつながる選択肢が検討されていたことになります。
16インチ・ノンカッタウェイという新たな構想を描く際、Benedetto氏の中には、Il Palissandroで試みた要素が、なお生き続けていたように思えます。
Il Palissandroは、一度きりの特殊作として閉じた存在ではなかったのかもしれません。
そして、この16インチ・ノンカッタウェイへの志向は、Savannah期にさらに明確な形を取ります。
Sinfoniettaです。
Sinfoniettaは、16インチ、胴厚3インチのノンカッタウェイ・アコースティックを基本形とし、25インチスケールを採用しています。
材、サウンドホール、ブレイシング、装飾は一本ごとに選択され、オーバルホール、fホール、伝統的な材からエキゾチック材まで、幅広い仕様が許されたモデルでした。
ここで重要なのは、Il PalissandroとSinfoniettaの仕様が一致することではありません。
16インチ・ノンカッタウェイという古典的な器が、材やサウンドホール、ブレイシングを変えながら、Benedetto氏の考えるアコースティック・アーチトップを追究する場になったことです。
2023年に製作されたCentennial Sinfoniettaは、その性格をさらに明確にしています。
この楽器は、1923年に初めて価格表へ掲載された16インチのGibson L-5から100年を記念して製作されました。
少なくとも後年のBenedettoにおいて、16インチ・ノンカッタウェイは、小さく簡素な派生モデルではありませんでした。
それは、初期L-5にも通じるアーチトップの古典的な姿であり、その上で材や構造を深く追究できる形式だったのです。
Benedetto氏は、この形にアーチトップの根源的なものを感じていたのかもしれません。
そう考えると、Il Palissandroの位置も変わって見えます。
ローズウッドのサイドとバックや、中央の花弁状サウンドホールが、そのまま後の標準仕様になったわけではありません。
しかし、16インチ・ノンカッタウェイという古典的な器に、通常とは異なる材や意匠を与え、別の音を探るという考え方は、後のBenedettoへつながっていきました。
Il Palissandroが後のBenedettoへつながったというのは、単に外観が引き継がれたという意味ではありません。
この形式を、自らが作りたいアーチトップとして選び、その可能性を追究し続けたこと。
その方向性は、後年のBenedettoを特徴づけるものになっていきます。
Renaissance Seriesとは何だったのか
では、Renaissance Seriesとは何だったのでしょうか。
Il FiorentinoとIl Palissandroには、シリーズとして分かりやすい共通仕様がありません。
一方は、ナイロン弦に応答するために構造を組み直した、きわめて独自性の高いアーチトップ。
もう一方は、スティール弦を張った16インチのノンカッタウェイに、Benedetto氏としては異例のローズウッドのサイドとバック、そして中央のサウンドホールを与えた楽器です。
二本の完成時期も、約1年9か月離れています。
それでもBenedetto氏は、手書きのログブックに個別のモデル名を書かず、どちらにもRenaissanceと記しました。
この事実を考えると、Renaissanceは共通する仕様を示すモデル名ではなく、この時期のBenedetto氏がアーチトップに向けていた、ひとつの問いの名前だったように思えます。
すでに確立していた自らの様式の外に、どのような可能性が残されているのか。
Il Fiorentinoでは、ナイロン弦という方向へ、アーチトップの可能性を探りました。
Il Palissandroでは、古典的な16インチ・ノンカッタウェイの中に、自らのアーチトップの可能性を見いだしました。
二本は、Renaissanceというひとつの問いに対して、異なる時期に示された二つの回答だったのでしょう。
その後、二本が示した方向は、異なる形でBenedettoに残りました。
Il Palissandroに現れた16インチ・ノンカッタウェイへの志向は、Sinfoniettaという正式モデルへとつながりました。
一方、Il Fiorentinoが探ったナイロン弦アーチトップの可能性も、この一台だけで途絶えたわけではありません。
Savannah期には複数のナイロン弦アーチトップが製作され、7弦モデルや、ナイロン弦仕様のSinfoniettaも現れました。
正式なモデルの系譜になったとは言い切れませんが、Il Fiorentinoが投げかけた問いは、後のBenedetto工房でも繰り返し取り上げられていたのです。
Renaissance Seriesは、二本だけで終わった短命な製品シリーズ、というだけではなかったのだと思います。
それはBenedetto氏が、完成していた自らの様式から一度離れ、アーチトップという楽器を別の角度から考え直した時間でした。
二本は同じ場所から出発したわけでも、同じ場所へ向かったわけでもありません。
それでも、製作時のログブックには、どちらにも同じ言葉が残されました。
Renaissance
Il Palissandroは、後のBenedettoへつながった。
Il Fiorentinoの問いも、途絶えてはいなかった。
参照資料
- Robert Benedetto, Making an Archtop Guitar
Limelite Press版、1994年/HAL・LEONARD版、2018年。
両版における#31494の「Il Fiorentino model」の記載を参照。 - Robert Benedetto 手書きログブック
#31494および#37096。筆者所蔵の画像資料を参照。#31494には「Renaissance」、#37096には、すべて大文字で「RENAISSANCE」と記されている。 - Frank W. M. Green, D’Angelico, Master Guitar Builder: What’s in a Name?
Centerstream Publications、2008年、pp.52–54。
Benedetto氏によるD’Angelicoギターの修理経験、およびナイロン弦仕様のオーバルホール・カスタムに関する記述を参照。 - Blue Book of Acoustic Guitars, 7th Edition
Blue Book Publications、2001年、p.110。
Renaissance Series、Il Fiorentino、Il Palissandroに関する記述を参照。 - Benedetto氏との往復書簡、仕様提案、サウンドホール案
2003年から2006年。筆者所蔵資料。
16インチ・ノンカッタウェイ、ローズウッドのサイドとバック、マホガニーネックの提案、および複数のサウンドホール案を参照。 - Benedetto Guitars Archives, “Il Fiorentino”
Benedetto Guitars Archives
1994年製のRenaissance Series “Il Fiorentino”に関する記録を参照。 - Benedetto Guitars Archives, “nylon string S2367”
Benedetto Guitars Archives
Stephanie Ward氏が製作したカスタム・ナイロン弦#S2367の記録を参照。 - Benedetto Guitars Archives, “Neil Lamb with Jamenco”
Benedetto Guitars Archives
Neil Lamb氏の7弦ナイロンモデル“Jamenco”に関する記録を参照。 - Benedetto Guitars, “Vinodetto XI”
Benedetto Guitars公式ページ
ナイロン弦仕様のSinfonietta、および増幅用Barberaブリッジ・サドルに関する記述を参照。 - Benedetto Guitars, “Sinfonietta”
Benedetto Guitars公式ページ
16インチ、胴厚3インチ、25インチスケールのノンカッタウェイという基本仕様、および材、サウンドホール、ブレイシングの選択肢を参照。 - Benedetto Guitars, “Centennial Sinfonietta 1 of 1”
Benedetto Guitars公式ページ
1923年の16インチGibson L-5から100年を記念した製作意図を参照。 - Treccani, “fiorentino”
Treccani公式ページ
イタリア語のfiorentinoが「フィレンツェの」、また名詞として「フィレンツェ人」を意味することを確認。 - Treccani, “palissandro”
Treccani公式ページ
イタリア語のpalissandroが、楽器にも用いられるローズウッドを意味することを確認。 - The Metropolitan Museum of Art, “Guitar, attributed to Matteo Sellas”
The Metropolitan Museum of Art公式ページ
17世紀のギターに見られる、サウンドホール内の装飾的なローズに関する記述を参照。




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