独り言

90年代の残光と、その後のBenedetto

90年代の残光と、その後のBenedetto

〜Savannahで失われたもの、残されたもの〜

はじめに

実物を見ていない者が、何を語れるのか

最初に、大切なことを書いておきたいと思います。

私は、Savannah製のBenedettoを実際に弾いたことがありません。
それどころか、実物を目にしたことすらありません。

なかなか堂々としたものですが、そこを曖昧にして、さも知っているように語るよりは、まだ幾分ましかと思います。
ただ、見てもいないし弾いてもいないくせに、Savannah以後のBenedettoについて、ずっと引っかかっているものがあります。

それは、一本一本の良し悪しではなく、Benedettoという名前の見え方が、ある時期を境に少し変わってしまったように感じる、ということです。

90年代のBenedettoに強く惹かれてきた一人のファンとして、Savannah以後のBenedettoを遠くから眺めた時に覚える違和感や寂しさ。
そして、まだどうにも捨てきれない未練.....。

今回は、そのあたりの複雑な胸の内を書いてみたいと思います。

90年代Benedettoに惹かれてしまった理由

私にとって、Benedettoという名前が特別なのは、やはり90年代の作品群があったからです。

もちろん、それ以前のBenedettoにも素晴らしいものはあるでしょうし、2000年代以降にも優れた一本はあるのだろうと思います。
しかし、私が最も強く惹かれてきたのは、やはり90年代のBenedettoです。

そこには、単に「よくできたアーチトップギター」という以上のものがあったように思います。

一本一本の緊張感。
モデルごとの説得力。
木工品としての美しさ。
そして何より、Robert Benedettoという作家の風格や色気、迫力が、まだ濃く残っているように見えること。

もちろん、これは私の勝手な見方です。

その時代に、その人が、その場所で作っていたという事実。
そこに宿る魂とでもいうのでしょうか。
そういう、少々面倒くさいものまで含めて、私(我々)はギターを見てしまう。

90年代のBenedettoには、少なくとも私には、その物語を背負わせたくなるだけの強さがありました。

それは「ブランドとしてのBenedetto」ではなく、
「Robert Benedettoという作家のギター」としてのBenedettoだったように思うのです。

Savannahで変わったのは、場所だけだったのか

その後、BenedettoはSavannahへと移ります。

ここで断っておきたいのは、私はSavannahへの移転そのものを悪だと言いたいわけではありません。
場所が変わること。
工房の体制が変わること。
ブランドとして拡大していくこと。

それ自体は、別に珍しいことではありません。

むしろ、個人作家の仕事が一定の評価を得て、より大きな体制へと移行していくのは、自然な流れでもあります。
いつまでも一人の手元だけで完結させることが、必ずしも正義とは限りません。
成り立ちや理念は多少異なりますが、Collingsなんてその成功例と言えるのかもしれません。

ただ、外から見ている限り、Savannah以後のBenedettoには、どこか違う空気が漂い始めたように感じます。

それは、ギターの出来が悪くなったという話ではありません。
私は実物を見ていないのですから、そこは語れません。

ただ、写真で見る限り。
仕様を追う限り。
市場に出てくる一本一本を眺める限り。

それまでのBenedettoに感じていた「作家のギター」という濃度が、少しずつ「Benedettoというブランドの商品」へと変わっていったように見えてしまうのです。

もちろん、これは外野の勝手な印象です。

けれど、ファンというものは厄介なもので、実物を手にしていなくても、変化の気配には妙に敏感だったりします。
正確であるとは限りません。
しかし、感じてしまうものはあるのです。

Savannahで変わったのは、本当に場所だけだったのか。

私は、そこに引っかかり続けています。

サインは残っている。けれど、ギターそのものから作り手本人の気配を感じ取ることは、以前より難しくなった。

Savannah以降のBenedettoのギターには、Robert Benedetto本人のサインがヘッド裏に入っているようです。
たびたびBenedettoのブログ(News)でサインするだけマンの仕事風景が紹介されています。

そのこと自体は、もちろん魅力です。何も無いよりは。
作り手の名前が刻まれている。
そのサインを見るだけで、その1本からボブさんを感じてしまう。

ギター好きというのは、そういうものでしょう。
ヘッド裏のサインひとつで心が動かされる。

しかし、Savannah以後の作品を眺めていると、そのサインの意味について、少し考え込んでしまう瞬間があります。

これは、本当に「作った人の証」なのか。
それとも、「ブランドを保証する印」なのか。

もちろん、私は製作工程を見たわけではありません。
ついでにギター本体も見ていません。
念のためもう一度書いておきますが、弾いてもいません。

それでも外から眺めている一ファンとしては、ある時期以降、Robert Benedetto本人の作家としての濃度が薄まってきているように感じてしまうのです。

サインは残っている。
しかし、作者の輪郭はぼやけてきているように見える。

この距離感が、どうにも寂しい。どうしようもなくモヤつく。

かつてのBenedettoに私が見ていたものは、単なるブランド名ではありませんでした。
Robert Benedettoという作家の美意識、判断や迷い、癖、そういうものまで含めた存在感でした。

ところがSavannah以後になると、その名前はより分かりやすく、より商品として整っていく。
その一方で、私が勝手に求めていた「この人が作った」という切実さは、少し見えにくくなっていく。

失礼を承知で言えば、ヘッド裏のサインだけが妙に目立って見えてしまうのです。

そのサインが悪いのではありません。
むしろ、サインがあるからこそ考えてしまう。

このサインは、何を保証しているのか。
私が惹かれていたBenedettoとは、いったい何だったのか。

悪いギターだとは言えない。だからこそ厄介なのです

ここで、もう一度はっきりさせておきたいと思います。

私はSavannah製のBenedettoを弾いたことがありません。
実物を見たこともありません。

ですから、それらを「悪いギターだ」と言うことはできません。
むしろ、実際には非常によくできたギターなのだろうと思います。

Benedettoという名前を掲げている以上、一定以上の製作水準は当然あるでしょうし、実際に愛用している人もいるはずです。
そこを雑に否定するつもりは全くありません。

問題は、単純に出来が良いか悪いかではないのです。

むしろ、そこが複雑なのです。

悪いギターなら話は簡単です。
「ああ、これは駄目だ」と言って終わる。
しかし、多分、そうではない。Savannah製のBenedettoも良いギターなのでしょう。
ちゃんと作られ、ちゃんと鳴り、ちゃんと美しいのだろうと思います。

それでもなお、私にとっては、90年代のBenedettoに感じたような切実な魅力が、少し見えにくくなってしまった。

つまり問題は、品質の良し悪しだけではないのです。

品質の良いギターであることと、私が惚れたBenedettoであることは、必ずしも同じではない。

ここが、何とも複雑で面倒くさい.....。
そして、ファン心理としては一番辛く苦しいところです。

失われたもの、残されたもの

では、Savannahで何が失われ、何が残されたのでしょうか。

もちろん、これも私の勝手な見立てです。

失われたように感じるもの。
それは、作家としての濃度です。

一本一本の張りつめた感じ。
「これはRobert Benedettoの手から生まれたものだ」と思わせる気配。
モデルごとの必然性。
そして、"ブランド"になる前のBenedettoが持っていた、目が離せなくなる危うい色気、美しさ。

一方で、残されたものもあります。

Benedettoという名前。
アーチトップギターとしての形式美。
美しい外観。
一定以上の製作水準。
そして、90年代から続く美意識の影。

そう考えると、Savannah以後のBenedettoを単純に否定することはできません。

そこには、確かにBenedettoの名残がある。
しかし、私が強く惹かれたBenedettoそのものではないようにも見える。

残光という言葉を使うなら、まさにそういうことなのかもしれません。

光はまだ残っている。
けれど、その光源はもう少し遠くに行ってしまった。

私はその光を見ながら、これはまだBenedettoなのか、それともBenedettoだったものの余韻なのかと考えてしまうのです。

好きだったものが変わっていくこと

結局のところ、私が見ているのは、ギターそのものだけではないのかもしれません。

90年代のBenedettoに、自分が勝手に見ていた夢のようなもの。
Robert Benedettoという作家に、自分が勝手に重ねていた理想のようなもの。
そして、アーチトップギターというものに対する、少々こじれた憧れ。

それらが、Savannah以後のBenedettoには少し見えにくくなってしまった。
もちろん、それはBenedetto側の問題というより、こちら側の問題でもあるのでしょう。

好きだったものが変わっていく。

それでも、Benedettoという名前を見ると、やはり反応してしまいます。
言葉にし難い胸のざわめき、とでも申しましょうか。

ただ、以前のようには見られない。

そこにあるのは、憤りというより、寂しさや虚しさに近いものです。
特に公式ウェブのNewsを見るときの気持ちは、少なくとも期待ではありません。

90年代のBenedettoに強く惹かれた者として、Savannah以後のBenedettoを眺めることは、少し苦いものです。
けれど、その苦しさすら含めて、まだBenedettoという名前に引き寄せられる。

好きだったものが変わってしまった時、簡単に目を背け続けることができれば楽なのかもしれません。
しかし、そうはいかない。

だから私は今も、90年代の残光を追いながら、その後のBenedettoを遠くから眺めています。

失われたものを惜しみながら。残されたものを見届けながら。
そして、どこかでまだ、あの名前に期待してしまいながら。

もちろん、見たことも弾いたこともないのですが。

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